テレビから、イクコさん その1
美津恵さん、ケントさんのところは、それぞれだいたい一定の間隔で定期的にお訪ねしています。お話ししている間に何かリクエストが出たら、次の訪問までにそれを準備して持って行きます。美津恵さんもケントさんも、行くたびに、
いつも ありがとう
と言ってくれます。とても嬉しいです。
ケントさんの前回の訪問からあまり日が経っていないある日、入られている施設の近くに行く用事があったので、ちょっとお寄りしてみました。お部屋に入って行くと、妻のルミコさんが「今、テレビをつけたところなのよ」。
よかった。今日はケントさん、顔が良い具合にテレビの方を向いています。無意識にはベッドの周りの人の顔を交互に目で追って首を動かしたりされるのですが、自分で意識的にどちらかを向くという動作はできないのです。できない、と言っています。四肢は、ほぼまったく動かず、時々動きが見られますが、随意ではもちろん動かすことができません。
「ケントさん」ベッドの足下の方から声をかけましたが、テレビに見入っているのか気がつかれません。ケントさんの顔の近くに顔を寄せてもう一度ご挨拶しました。
「ケントさん、こんにちは。たかぎです」
ケントさんの左に傾いていた顔がぱっと上を向きます。そして私をみた途端、目を大きく見開いて口もあんぐりと開けて、まさにびっくり仰天のお顔です。寝たきりで、変わらぬお部屋の景色の中でメモを取ることもできず、そんな中で日にちや時間の感覚を保つのはたいへんだろうと思います。でもちゃんと「サプライズ」訪問を理解できています。私が現れるペースを心に留めてくださっているんだなと、あらためて思いました。
ルミコさんが「わあ、見たこともないくらいの最大の歓迎ぶりだわ」と笑いながら言いました。私も嬉しい。
「あーケントさん、驚かれましたか。前回の訪問から日を置かずにお邪魔したのでびっくりされましたよね。近くに用事があったので寄ってみたんです」
ケントさん、
びっくりした
と書かれました。
「そんなに驚いていただいて、サプライズが効いて嬉しいです」
いつも ありがとう。
ルミコさんが「あなた、よかったわね。テレビ消すわね」と続けました。
テレビ みる。
たかぎ:え…。
ルミコさんが慌てて「せっかくたかぎさんが来てくださったのよ。テレビ消すわよ」と言ってくださったのですが、
テレビ みる。
ルミコさんとたかぎ、思わず苦笑です。最大の歓迎もテレビには勝てません。でもそういうふうに希望を通すこと、そしてそれが伝わることがまた嬉しいのです。
気がつくとケントさんの首はいつの間にかまたテレビの方に向き直っています。
動くのに、動かせない。人間の体は本当に不思議です。
「何をご覧になっていたんですか」と聞きながらテレビの画面に目をやると、一人の男性が山を登っている場面。アルピニストが山に登る姿を追い、山への思いを語る言葉を淡々と拾っていく紀行番組でした。かなり高い山でしょうか。雲の上にまた高い山々を望む美しい風景に、「きれいですね。ただ山を登っていくところをずっと追っているだけなのに、でも、面白いですね」と話しかけてみました。
テレビは こころで みる。
はっと胸を突かれました。ケントさんは倒れる前、ルミコさんや仲間達とたくさん旅行を楽しまれていたのです。
「ケントさん、よくお出かけされていましたものね。こういう番組を見るとご自身が行かれた時のこと、思い出しますね」
そう。テレビ、こころでみる。
ルミコさんが言いました。「前に信州の方に出かけた時に、遠くの高い山なみを指して、『登ったことがある』と言ったの。学生の頃登山をやっていたらしくて」
「そうなんですか。ケントさん、登山していらしたんですか」と私。
よく のぼった。
「でも高い山に登るのはたいへんそう」
たいへん。でも たのしかった。
「そうですか、ちょうどテレビで良い番組をやっていてよかったですね」
ケントさんとルミコさんと一緒にテレビを観ながら、思いがけず思い出話を聞くことができました。今、唯一の意思疎通可能な者と自意識過剰な私に対するテレビの完全勝利に笑い、一緒に番組を楽しんで語らったおだやかなひとときでした。
翌日、ちょうどケントさんと私が共に活動していたサークルの仲間とお昼を食べた時、ケントさんの話をしました。「さすがのたかぎさんもテレビには負けたわけね」とひとしきり笑った後、ふとイクコさんが言いました。
「でも、私、ケントさんの気持ちわかるわ」
( 続きます)